憲政の常道
(「憲政の常道」とは何か?意味や歴史について簡単に分かりやすく解説します)

日本歴史の教科書では、大正時代の政治を指して「憲政の常道が実現した」という言い方をすることがありますね。

これは簡単にいうと、二大政党制による政治が実現したという意味です。

憲政の常道とは?


大正時代に成立した「二大政党制」の政治のこと

今では「国民が選んだ国会議員が内閣を作って政治をする(総理大臣になる)」というのは当然のようですが、この時期以前はまだこうしたシステムが固まっていない時期でした。

(選挙でえらばれていない人たちが総理大臣になったりしていた)

そうした状況で、国民が選挙で選んだ人たちの中から、政府の中心人物になる仕組みができたというのはとても画期的なことだったのです。

ここでは、「憲政の常道」の意味や歴史についてくわしく解説します。

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憲政の常道の意味とは?簡単にいうと何のこと?

「憲政の常道」とは、二大政党の党首が交互に首相となることを基本とする政治のあり方のことです。

憲政の常道の基本な考え方は、次の2点にまとめられます。

憲政の常道の基本な考え方


  • 内閣総理大臣は第一党から選出する
  • 内閣が総辞職した場合、次の総理大臣は第二党から選出する

現政権に不祥事や政策の問題が発生した時などは選挙が行われ、ひとつ前では野党だった政党が政権与党となり、党首が首相として内閣を組織して国を運営します。

現代的な言い方をすれば「二大政党制」ということになります。

国民に指示されなくなった政権担当者は選挙によって排除され、次の代表者が選ばれることになりますから、国民主権をより確実に実現できるのがメリットです。

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憲政の常道=二大政党制の問題点(デメリット)とは?

二大政党制のデメリット(問題点)は、次のことがあげられます。

二大政党制の問題点(デメリット)


  • ①選択肢が2つしかなく、少数派の意思が反映できない
  • ②二大政党で政策が全く異なる場合、政権交代直後に政治が不安定になる
  • ③二大政党の思想や政策が近い場合、国民の多様な意見が反映しにくくなる事がある
  • ④二大政党間で談合や汚職などが行われた場合、致命的な政治不和となりやすい

それぞれの項目について、順番に説明します。

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①選択肢が2つしかなく、少数派の意思が反映できない

選択肢が2つしかない場合、賛成か反対かなどの白黒をはっきりさせる場合は良いのですが、それ以外の選択肢が良いと思われる場合などに困ってしまうことがあります。

例えば、引き上げや引き下げが頻繁に議論される消費税率について考えてみましょう。

廃止もしくは5%への引き下げが良いとする野党、財源確保のために10%への引き上げをする与党側というように2つの意見しかないのであれば二大政党制でもOKです。

しかし、8%の現状維持が良いとか、そもそも消費税は廃止したほうが良いという第三、第四の世論があった場合、これらの選択肢は選挙で反映してもらうことができません。

二大政党制は良くも悪くも「ビッグ2」の政党が政治を独占しますから、少数派の意見も取り込む努力が必要です。

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②二大政党で政策が全く異なる場合、政権交代直後に政治が不安定になる

二大政党の間で意見が全く違う状態だった場合、政権移行が行われた直後には政治が不安定になる可能性があります。

例えば、過去に「自民党→民主党」の政権交代が行われた際には政治が非常に不安定になりました。

具体的には、もともとは積極的に公共投資を行っていた自民党政権から、民主党政権に交代が行われたことにより、公共投資が大幅にカットされました。

これによって、建設業全般に渡る不況が問題となりました。

日本は建設業に関連する業種が多く、国内総生産(GDP)の1割弱を占めていることもあって不況に拍車をかける事態となってしまったのです。

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③二大政党の思想や政策が近い場合、国民の多様な意見が反映しにくくなる事がある

そもそも二大政党の2つの政党で、製作が同じような内容になっていると、国民の多様な意見を政治に反映することができなくなります。

これは世論と政治家の考え方にズレがある場合に起きやすい現象です。

議員報酬の値上げに対し、世論は報酬引き下げを求めているのに対し、与野党ともに議員報酬の引き上げで政策が一致している場合などな考えられます。

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④二大政党間で談合や汚職などが行われた場合、致命的な政治不和となりやすい

本来は対立的な関係にあるべき二大政党どうしで、なれ合いのような形で政治が行われた場合、政治の腐敗をなくす方法がありません。

正式には二大政党の話とは異なりますが、戦前の「大政翼賛会」の結成から戦争に突き進んでいった悪政が良い例ではないでしょうか。

これに近い状況としては、数年前に「与野党大連立」という話題で騒ぎになったことがあげられるかと思います。

汚職や不祥事があった訳ではないのですが、安定政権を望む財界からの勧めにより、与野党双方で意見の近い派閥・グループを引き合わせたことがありましたが、実現には至りませんでした。

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実際にどのような事件が起きたか

一番有名な事件としては、「五・一五事件」があげられます。

当時は世界恐慌の影響で経済が縮小し、多くの人々が貧困に追い込まれ、国民の生活が荒れ果てていました。

国を変えたいという青年将校のクーデターやテロ行為によって憲政に終止符を打つことになりますが、この騒動を利用した軍部が実権を握り、戦争への道のりを走り出したのです。

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憲政の常道の歴史:二大政党制の始まりと終わりはいつ?

憲政の常道は、大正13年(1924年)の加藤孝明内閣に始まり、昭和7年(1932年)の犬養毅内閣で終わりとなりました。

「憲政の常道」の始まりと終わり


  • 始まり:1924年の加藤孝明 内閣
  • 終わり:1932年の犬養毅 内閣

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大正13年(1924年)、貴族院の清浦圭吾内閣は第二次護憲運動の選挙に敗北して総辞職すると、憲政会の加藤高明が総理大臣になり、憲政の常道が始まります。

大正15年(1926年)、内閣総理大臣の加藤高明は病気のため亡くなりますが、内閣を総辞職したものではないため、同じ憲政会の若槻礼次郎が総理大臣となり、新たな内閣を組織します。

昭和2年(1927年)、若槻内閣は金融恐慌の責任を取って総辞職し、第二党であった立憲政友会の田中義一が総理大臣となりますが、昭和4年(1929年)に張作霖爆殺事件で天皇より叱責を受けたため総理大臣を辞職し、立憲民政党(憲政会が改名)の浜口雄幸が総理大臣になります。

昭和6年(1931年)、内閣総理大臣の浜口雄幸は狙撃による重傷を負い、内閣を継続する事が負荷となったため、同じ立憲民政党の若槻礼次郎が総理大臣になります。

同年、内閣総理大臣の若槻礼次郎は満州事変の責任を取って総辞職し、第二党であった立憲政友会の犬養毅が総理大臣となります。

昭和7年(1932年)、内閣総理大臣の犬養毅が五・一五事件で暗殺されると、次の総理大臣は海軍軍人であった斎藤実が選ばれ、憲政の常道が事実上ここで終わりを遂げました。

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まとめ

夏の参議院議員選挙が近づくつれ、衆議院を解散して衆参同日選挙の流れも取り沙汰されています。

ひと時は「日本でも二大政党制で解りやすい政治」を目指そうとする動きもありましたが、現政権の一強体制が長引くにつれてその言葉を聞くことも無くなってきました。

二大政党制は、有権者にとっては二択となるので、政策上の争点が明確で政党の選択をしやすく、政権が安定しやすくなるというメリットがありますが、前述のような不安定要素を抱えたデメリットも沢山あります。

有権者は今のルールに従った選挙制度の下で、政権に対する意思表示をすることが大切です。

そして、必要に応じて選挙の仕組みを変えていくことが大切なのではないでしょうか?

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